大学時代に、
言語で全てを表現することができないことを実感する体験をいくつかした後、 言語化することを諦めた。
言語化されたとたん、それまで感じていた壮大な世界が、一気に狭くなる体験を何度か味わったから。
言語ではすべては伝えられないのなら、言語化なんてする必要がない。
というなんとまあ極端な結論を安易に出した。
それに転機が訪れたのは、30代後半の大学院。
「ワーク・ライフバランス」という、
1人1人が自分の思う生き方を実現できる豊かな社会を創っていくにはどうしたらいいのか、
どうしたら人は豊かな人生を歩めるのか、漠然としたテーマを研究したくて、大学院へ入った。
それまで、自分の境界線を守るために、社会の情報はなるべく遮断した生活を心がけていた。
そうでないと、平常心で生活ができなかったから。
また、情報を入れることで自分のインスピレーションが鈍ってしまうという感覚があったから。
大学院に入ってからは、人が言語化した情報を読み、
自分の感じていることや考えを言語化しなければならなかった。
言語化するだけではなく、それを理論だてて説明する必要があった。
我ながら、どうしてこれまで避けてきたことに自ら飛び込んだのか?と疑問を抱き苦しみつつも、
「ワーク・ライフバランス」というテーマを追求することに夢中だった。
その後も仕事で、コンサルティングやセミナーをしていく上で、
「相手に伝わりやすい言葉、表現、順番」を意識する日々。
言語化することの必要性と難しさを学び、どうして、私はこんなに言語化できないんだろう…と自分を責め続けてもいた。
そして、先週日曜の朝食で、自然農法で育てられた日本ミツバチのはちみつを堪能した際、
はちみつをまじまじと見つめて、口にし、
ミツバチの一生に思いを馳せる…そして感じるこの感覚…言語化できない…!と思っていた。
そんな日曜日の午後、はっと我に返る言葉と出会った。
「絶えず言葉にしてしまうことに気づいて、それをやめられるようになることだ。
ものごとをただ見るがいい―言葉にしてはいけない。
それらがあることにただ気付きなさい、だが、それを言葉に変えてはいけない。」
この言葉を見たときに、ぱっと浮かんできたことが2つあった。
1つは、「何が苦しいのか、つらいのか、言葉にしないと分からないよ。」と、
大学時代に友人に言われた言葉。
2つ目は、言語化が苦手であることをよく責めてしまっている私。
当時、この友人は多少なりとも私を理解しようとしてくれたかもしれないけれど、私は理解してもらうことを諦めた。
どうせ、伝わらない、理解してもらえないだろうと。
でも、本当は理解してもらいたかったんだということ、
言語化が苦手であることを意識するたびに、
脳裏には、その友人に言われた言葉があったこと、
そして、大学院から現在にかけてのこの7~8年間は、
「言語化が全て」という価値観の中に我が身を置いていたのだ、ということに気が付いた。
そろそろ、この価値観から脱却する時期なのかもしれない。
五感、六感を研ぎ澄まして、ありのままに受け入れて感じていこう。